やる気スイッチの押し方

「禮」とは「礼」の旧字体で「れい」と読みます。神社にはよく「御祭禮」と 
書かれた提灯などが吊るされてたりします。恥ずかしながら私自身、「禮」の 
読み方をきちんと覚えたのは三十半ば過ぎてからでしたが、その後、間違えず 
にきちんと読めていることを思うと、人間いくつになっても勉強できるんだな 
あと感慨深くなります。 

タイトルにやる気スイッチなどと書いてみたものの、個人的には「やる気」と 
いうものがあまり好きではありません。スーパーサイヤ人よろしく、いつでも 
どこでも「やる気」を出せるのであればともかく、大半の人は「やる気」がで 
ない、というお悩みを抱えた経験があるはずです。つまり「やる気」に頼った 
仕事をしていたのでは、その成果にムラが出てしまうと思うからです。 

ムラの出ない仕事をするには、仕事を習慣化してしまうことだと思います。た 
だし、仕事というと大きく捉えすぎて習慣化が難しいと思いますので、もっと 
細分化する作業は必要かなと思います。 
・PCを立ち上げる 
・ログインパスワードを入れる 
・コーヒーを一口飲む 
メーラーを立ち上げる 
このくらいハードルを下げれば習慣化もしやすいのではないでしょうか。仕事 
とは細分化されたタスク(マイルストーン)の積み重ねですから、これらが順調 
に完了できれば仕事も完了するはずです。最近ではKPIやKGIなどと仰々しく言 
われたりしますが、計画を立てて、その計画通りに物事を進められれば仕事は 
完了する、ということです。 

そうはいっても、私にも「やる気」を見せることを求められる場面はあります。 

そういう場合には滞りなく「やる気」を見せなくてはいけません。それこそが 
やる気スイッチの押し方であるとこの場で断言しておきます。なぜならば、本 
当に「やる気」があったとしても、それは自らの中に内在するものであるがた 
めに、人それぞれその顕現のあり方が違うはずです。つまり「やる気」が相手 
に伝わる、ということは相手がそれを認める、ということに他ならず、本当に 
「やる気」がそこに存在するか否かについては問われていないのです。極論、 
我々は「やる気」がなくてもあるように見せることができるのです。 

私は富士山の麓で行われる12泊13日の狂気といっても過言ではない研修でこの 
気づきを得ました。学びの非常に多い研修ではありましたが、2度と行きたく 
ないし、お勧めはしません。その研修のエッセンスだけであれば、ビジネス書 
で十分であると、このメルマガでの二度目の断言をさせて頂きます。 

ここまでの前置きを経て、ようやくこの文章は冒頭の「禮」に辿り着きます。
「やる気」を見せる方法、それは相手に「禮」を見せることです。礼儀作法が 
きちんとできているということは、相手に対し敬意を抱き、それを行動として 
外に示す事が、私の体には豊か(十分)に備わっているということです。相手の 
話を聞く時には、正対し耳を傾け相槌を打つ(必要ならばメモを取る)。相手に 
話しかけるときには、きちんと挨拶から始める、敬語を使う、などなど、相手 
に対しての敬意と思いやりをどれだけ見せつけられるか、ということです。 


身も蓋もない話ですが、もっとありていに言えば、いかにして相手に気に入ら 
れるかなのです。気に入られた方が気に入られないよりも仕事がしやすいとい 
うのは、異論のある方はいないのではないでしょうか。仕事とは自分1人で行う 
ものではなく、多くの人との協業であるのだからこそ、やる気スイッチを上手 
に押せるようになるべきである、という感じにきれいにまとめて終わります。 

 

老眼についての考察

老眼になった。

 

最初は最近眼鏡が合わないなー、という程度の認識だった。ところが健康診断で矯正視力がガクンと落ちたことをきっかけに新しい眼鏡を作ろうとしたところ、これがまあ手間のかかること。まず乱視のレベルを3つ4つ上げ、視力も上げたい、という話をすると店員さんに渋られる。そんなにいきなり矯正すると辛いと思うので、とか言われるんだけど、こちらとしては運転するのに安心感も欲しいし、まだまだブーストできるっしょ、くらいの認識で、約3メートル先のそこそこ小さい字がはっきり見えたところで、これお願いします!と作って意気揚々と帰ったわけですよ。

 

ところが

 

ふとスマホを取り出して見てみたら全然文字が見えない。腕をこれでもかと伸ばしてようやく文字が見えるんですよ。そこで気が付くんです。

 

あ、おれ老眼なんだ。

 

これは自分の中の三大老化ショックに数えられる出来事でした。

ちなみに三大老化ショックは、

・気づいたらズボンの腰回りが入らなくなってた(しばらく便秘のせいだと思ってた)

・下の毛に白髪があった(鼻毛もしかり)

・そしてスマホの文字が見えない

がオレ認定です。

 

新しく作った遠くがよく見える眼鏡はやっぱり必要だし、改めて近いところ見る用の眼鏡を作るか、それとも眼鏡をはずして対応するのか、これから試行錯誤して今後のハッピーライフを検討していきたいと思います・

 

それにしても老眼の人って健康診断の視力図るときって、どうするんですかね。やっぱ遠いところを見る用で測るのかなー。先達さんに教えてもらいながら、今後も頑張ります。

高負荷メンタルトレーニング

当方、基本的に身体に負荷をかけることをトレーニングと信じて疑っていません。

ランニングを行えば脚の筋肉と呼吸器、心拍系のトレーニング。

筋トレはもちろん筋肉のトレーニング。

お酒は肝臓のトレーニング。

ショッキングな出来事はメンタルのトレーニングになるわけです。

 

レーニングというからにはいきなり高負荷をかけてはいけません。我々は育ち切っていない筋肉ではバーベルを利用したトレーニングなどできるわけがなく、自重ですら満足にトレーニングを行うことができないことを知っているのです。

 

つまりトレーニングと銘打つからには徐々に負荷を上げていくこと、これが肝要なわけです。そして負荷をかけたあとの休息。これもトレーニングには必須です。負荷をかけ、軽く痛めつけたところが超回復する、その一連のサイクルこそがトレーニングの有意味性といえるのではないかと思うのです。

 

そのような意味でお酒を飲めば当然に肝臓が鍛えられ、より多くのお酒を飲めるようになるはずです。そして負荷をかけたあとに休肝日を用意すること、これがなければ超回復のフェーズがないのでお酒が強くならないこと、お酒を飲むことをしばらくやめるとお酒に弱くなったように感じること、すべてがトレーニングの観点から説明できるのです。

 

よって自分自身の身体の一部である、そのメンタルも同様の手法でトレーニングできることが推察されます。ただし、負荷を徐々にかける、この点においてメンタルのトレーニングは非常に難しいといえます。なぜならメンタルに負荷をかけるそのストレス要因が、当人にとってどれくらいの負荷となるのかが見える化されていないからです。ストレスを数値化する試みはそれなりの事例がありますが、メンタルが鍛えられている人と鍛えられていない人では、その負荷のかかり方が違う、すなわち、トレーニングになる負荷かどうかが判断できない、ということが問題になるわけです。

 

当方も営業マンとしてそこそこのメンタルトレーニングを経験してきた自負はありますが、今回は相当に高負荷でした

・旧友の代表(齢40くらい)が急逝した。

・すげー仲いい代表(齢30くらい)が失踪。

そんなことお構いなしに、通常業務のストレスがかかってくるわけです、ええ。

流石につらいなー、一週間くらい休みたいなー、そうだインフルにかかろうとか思うと、周りから怒られるわけです。メンタル超回復させてほしい気持ちを理解して頂けただろうところで終わりです。

 

ハーフマラソンの醍醐味

2/3にハーフマラソン走ってきました。

ランニングウォッチ忘れないように、と何回も念じて、前の晩、布団の中に入ったにも関わらず当日忘れました。RunKeeperで何とかログは取ったものの、フィニッシュしたら電池残り1%。この世の終わりを垣間見ました。

その終わりから復帰するのは反省会の串カツやで、お兄さんになんとか充電してもらえないか頼んだところ、充電セット一式(ケーブルとコンセント)を貸してくれたからに他ありません。次の機会があったらまた行くことを宣言します。

 

さてタイトルに戻り、ハーフマラソンの醍醐味なのですが、これは圧倒的にフルマラソンとは違うということを述べておきます。といっても過去大会の出場経験はフル3回、ハーフ2回のひよっこです。

 

ハーフマラソンの醍醐味

1.頑張れば終わる気がする

2.前のめりでもゴールできる

3.なんかちょうどいい

 

1については、ある程度ランニング経験のある人ならわかってくれると思いますが、10kmまでは日常的に練習で走れる距離なのです。1時間あれば大体達成できるので、平日の練習としてもちょうどいい。もっと言えばジムにおいてあるトレッドミルって大体1時間で強制終了になるので、それも目安になるわけです。ハーフの距離ってこの倍なわけですよ。それならなんとかできそう、って思えるのがいいと思います。

 

2については、大体の場合大会に出ると、周りのペースにつられて想定よりも早いペースで進みます。最初のうちはいいのですが、徐々にこの無理なペースに脚がやられてしまうわけです。それで最後まで走り切れないというのが大会初心者あるあるなのです。しかしながら普段から10km走っておけば、無理なペースで脚を使い果たし、最後ヘロヘロになった場合でもなんとかゴールにたどりつける可能性大。これは嬉しい。

 

3については、もうそのままです。なんかちょうどいい。ハーフマラソンはなんかちょうどいいからなんかちょうどいい。と、トートロジーをなんとなくぶっこんでみたかったとかそういうわけではなく、1,2の理由から、なんかちょうどいいのです。

 

ハーフマラソンに対する熱い想いをご理解頂けたところできれいに締めてもいいのですが、もう一つ伝えておきたいことは、ランニングウォッチを忘れると、ペースがつかめず、最後ヘロヘロの可能性大である、2/3の大会もそうでした、ということを自戒を込めてここに記して終わることにします。

 

これからの正義をふわっと語ったらカレーだった件

我々は我々自身の正義を持っている。
それはほかの誰にも侵されることのない、崇高なものである。
しかしながら時としてその正義は他とぶつかることとなる。
これが個人間でなく、国家対国家になったものが戦争である。


戦争は正義対悪なんて単純な図式で語られるものではない。正義対正義の衝突なのだ。
ある一方の正義は戦争の敗北という結果をもって我々が住む世界の歴史に悪として刻まれるのだ。


しかしながら我々は思う。 正義とは他を侵すことを許容されるものなのだろうか。
自らの考える正義を他に押し付けることは、
他の考え、あり方を認めないということで、戦争に直結する観念である。
自分が正しいと言い続ける行為がいかに独善的な行為であるか、
我々は改めて認識する必要があるのかもしれない。

果たして正義とはいったい何なのであろうか?
我々は金色の泡の出る素晴らしい飲料をビールと認識できる。
そのビールが一番搾りであろうと黒ラベルであろうと ビールと認識できるのである。
そのように絶対的に抽象化された正義という概念を、我々の世界は持っているはずなのである。
だからこそ我々は正義について語り合うことができるのである。


ギリシアの哲学者プラトンは絶対的に抽象化された概念を 真なるもの「イデア」と名付けた。
正義には正義のイデアがあり、ビールにはビールのイデアがあるのである。
そしてイデアの究極の姿、イデアイデア足らしめる概念こそが 「善」なのである。
つまり正義のイデアイデアである以上、「善」きものであるはずである。
そして究極のイデア、「善なるイデア」を探求することが哲学の究極の目的、
「知を愛すること」と位置付けられるのである。

イデアは「人間では及び知ることのない本当の知の実体である」であり、
それを完全に知覚できるものは神のみである、
だからこそ我々はそのもの自身を知らない、 ということを知らなければならない。
これこそが「無知の知」なのである。

我々は自分の正義について深い省察をすることなく盲信しがちである。
しかしながら「正義のイデア」の一実体として現れたその正義が、
完全に「善」である、ということを我々人間は知覚する術を持たない。検証できないのである。
よってその正義については常に批判的な態度での考察を必要とするのだ。
自らが振りかざす「正義」の矛先にあるもの、 そのものも同様の「正義」を持つのである。
これらはどちらが正しいなどと軽々しく結論付けできるものではない。
他者を批判するその自身の正義、考え方こそ、
真っ先に自らが批判する勇気を我々は持たねばならない。

以上の哲学的探究をもって、「すべてのカレーを愛すること」という
カレー部(仮)の真理を垣間見てもらえると幸いに思う。
すべてのカレーは世界中の人々を笑顔にするのである。