これからの正義をふわっと語ったらカレーだった件

我々は我々自身の正義を持っている。
それはほかの誰にも侵されることのない、崇高なものである。
しかしながら時としてその正義は他とぶつかることとなる。
これが個人間でなく、国家対国家になったものが戦争である。


戦争は正義対悪なんて単純な図式で語られるものではない。正義対正義の衝突なのだ。
ある一方の正義は戦争の敗北という結果をもって我々が住む世界の歴史に悪として刻まれるのだ。


しかしながら我々は思う。 正義とは他を侵すことを許容されるものなのだろうか。
自らの考える正義を他に押し付けることは、
他の考え、あり方を認めないということで、戦争に直結する観念である。
自分が正しいと言い続ける行為がいかに独善的な行為であるか、
我々は改めて認識する必要があるのかもしれない。

果たして正義とはいったい何なのであろうか?
我々は金色の泡の出る素晴らしい飲料をビールと認識できる。
そのビールが一番搾りであろうと黒ラベルであろうと ビールと認識できるのである。
そのように絶対的に抽象化された正義という概念を、我々の世界は持っているはずなのである。
だからこそ我々は正義について語り合うことができるのである。


ギリシアの哲学者プラトンは絶対的に抽象化された概念を 真なるもの「イデア」と名付けた。
正義には正義のイデアがあり、ビールにはビールのイデアがあるのである。
そしてイデアの究極の姿、イデアイデア足らしめる概念こそが 「善」なのである。
つまり正義のイデアイデアである以上、「善」きものであるはずである。
そして究極のイデア、「善なるイデア」を探求することが哲学の究極の目的、
「知を愛すること」と位置付けられるのである。

イデアは「人間では及び知ることのない本当の知の実体である」であり、
それを完全に知覚できるものは神のみである、
だからこそ我々はそのもの自身を知らない、 ということを知らなければならない。
これこそが「無知の知」なのである。

我々は自分の正義について深い省察をすることなく盲信しがちである。
しかしながら「正義のイデア」の一実体として現れたその正義が、
完全に「善」である、ということを我々人間は知覚する術を持たない。検証できないのである。
よってその正義については常に批判的な態度での考察を必要とするのだ。
自らが振りかざす「正義」の矛先にあるもの、 そのものも同様の「正義」を持つのである。
これらはどちらが正しいなどと軽々しく結論付けできるものではない。
他者を批判するその自身の正義、考え方こそ、
真っ先に自らが批判する勇気を我々は持たねばならない。

以上の哲学的探究をもって、「すべてのカレーを愛すること」という
カレー部(仮)の真理を垣間見てもらえると幸いに思う。
すべてのカレーは世界中の人々を笑顔にするのである。